伝説、そういうものが、まったくなくなったような時代になった。情報が何でもすぐに手に入って、知りたいことがすぐに自分に届く時代。スポーツの世界でも、体罰は厳禁になって、オープンな指導が求められる時代。
そんな中で、「その人」は、和歌山の野球少年たちの間では、その少年たちが、もうすぐ60歳を迎えようと、中年でとても野球などできないような体型になっていようと、ただ一心にボールを追い続けた日々が、その人の顔を見ると、一瞬によみがえってくるそんな人だった。
リトルリーグで、今ではできないような、とてつもなく厳しい練習で、世界一に導いた。僕と同じ学年の教え子は、昨日、しきりに涙を流していた。リトルリーグで教えてもらったそのインパクトがあまりに強くて、その人以外の指導を受ける気にならなかったのだろう。高校では、野球部に入っていない。
桐蔭の野球部には、教えに来ることはないとささやかれていた。その河野さんが、桐蔭にやってきた。野球をやっていた選手や、関係者はびっくりした。当時の野球部の3年生は、逃げ出そうと思ったと語っていた。彼もリトルの教え子だ。
僕が、大学生で、桐蔭によく行っていたころだった。初めてやってきたときは、ベンチの前に、段ボールを広げて、そこで着替えていた。僕はそれ以前には会ったことがなかったので、「変わったおっさんやな。」ぐらいの印象しかなかった。機嫌のいい時には、自分のことを、「河野さんねぇ・・・・」と言いながらしゃべる。河野さんが来たことで、僕も、毎日のように桐蔭野球部に顔を出すようになった。あるときは、早朝からノックをしていた。河野さんと一緒にいると、中途半端な気持ちで野球をやってはいけないと思うようになった。
それから20年以上、ずっと桐蔭の野球のことだけを考えて送ってきた人生だった。夜遅くまで、生徒の家を回って、バットスイングを指導したり、家でもいつもメモ用紙に、ダイヤモンドを書いて、打順を書いて、野球のことだけ考えていた人だった。
そんなとてつもなく厳しい人なのに、できない、下手な生徒に対して、決してあきらめることなく、どこまでも真剣に指導する。みんなにチャンスをちゃんと与える。あるとき、僕に、
「指導者にとって、一番大切なことは何かわかるか?それは、情熱なんよ!」
「情熱ってなんかわかるか?それはなあ、その生徒を何とかしてやりたいと言う気持ちなんよ!」
と語ってくれたことがある。直接、野球は指導してもらったことはなかったが、一緒にいることで、今のこの仕事に一番大切なことは何なのかを、身をもって教えてもらった気がする。
「桐蔭の野球は、背番号と守備位置が全く一致してないな!」よく河野監督の時代に言われた言葉だ。ただ、監督は、ベンチに入っている選手を、全員出してやること。まずはそれを一番に考えて、試合をしていた。勝負に中にも、「情」を大切にする人だった。もっとクールに行っていたならば・・・と思う人もいただろうが、決してそんな人ではなかった。家族葬だったが、多くのOBや教え子が昨日一昨日と駆けつけていた。
その1人1人の胸の中には、今の高校野球では決して体験できないような、特別な思いがしっかりと残っている。それは、その人と、河野さんとの絆であり、伝説となって、これからもずっと心に残っていく。みんなが、その思いをもう一度確かめあった日となった。
安らかにお休みください。そして、これからも、ずっとずっとノックバットを振り続けてください。