東野圭吾の小説に、「手紙」がある。その冒頭に所で、お金を取りに他人の家には行った犯人が、家を出ようとした時に、テーブルの上にあった、天津甘栗が目に入って、昔、弟の食べた時の楽しかった思い出がよみがえってしまい、それを取りに行って、結局つかまってしまうというシーンが描かれていた。
最近は、あらかじめむいてある甘栗を食べることが多くなった。初めのうちは、むかなくてもいいので喜んで食べていたが、最近はなんだか、すべて同じ味がして、水っぽい感じがする。やっぱり、皮をむいて食べるのがいい。きれいにむければ嬉しいし、うまくむけない時は、皮にくっついたところを、ほじって食べたりする。そして、何よりも、味がすべて均等でない気がする。この一つ一つの動作にこそ、栗を食べる楽しさがあるのかもしれない。それは、獲物を捕まえて、それを食べるという昔の我々の祖先の習慣を、ほんの少しでも味わえるからかもしれない。週末に、スーパーで買ってきた、天津甘栗の皮をむいて食べながら、ふとこんなことを考えていた。
食べるという行為ですらこうなのだから、ものを学ぶということは、少し苦しみを伴った方がいいに決まっている。あんまり楽をして覚えたものは、身につかないような気がどうしてもしてしまう。楽をするにしても、楽をするための方法を自分で編み出すのに苦労をしなければならない。甘栗も勉強も一緒。むいてある甘栗を喜んで食べているような、そんな勉強をしていてはいけない。